掛け違えたボタン

「さっちゃんのことが、好き、なんだ。」

 よく晴れた空、澄み切った空気。
 二月十四日、バレンタインデー。恋する乙女を応援すべく照らされる、まぶしいほどの朝日の中、その想いを告げるものがあった。
「ぇ、ぁっ、ぅ、うん、ありがと。私も、ゆーくんのこと、好き。でもね、今日は、バレンタインデーだよ。」
 差し出されたチョコレート入りの、それにしてはちょっと大きめの紙袋を左手が押さえ、右手でチョコレートを入れるにぴったりの紙袋を差し出す。そして女の子は、困った笑顔で言った。

「だから、女の子から、言わせて。ね。」




「ホントに食べちゃっていいの?」
 お昼休みの教室に、チョコレートケーキを囲む女子三名。
「うん、いいのいいの。ゆーくんだってその方が喜ぶもん。」
 そのチョコレートケーキ、実はもらい物。
「さすがの優人くんも、そんなに優しくはないと思うけど。」
 と言うより、プレゼント。今日は二月十四日、バレンタインデー。恋する乙女たちがチョコレートを食べる日、ではないはずだが。
「大丈夫だよぅ。ゆーくんが『みんなで食べて』ってくれたんだから。」
「なるほどね。」
「あれから一年、やっぱり優人くんは、優人くんのままなんだねぇ。」
 チョコレートケーキを二人に勧めているのは、河原佐知子(かわはら さちこ)。先ほどから話題にあがっている「ゆーくん」の恋人。
「そうだよ、ゆーくんは私の好きなゆーくんだもん。告白されたあの日から、ううん、ずっと前から何も変わってないよ。」
 幸せそうな笑顔に小さな苦笑いが含まれたことを、ともにケーキを囲む二人の友人、理奈と瑞葉は見逃さなかった。

 昨年のバレンタインデーに告白したことから、二人の恋人関係は始まった。それまでは優人が十二年前にこの街に引っ越してきてから、半ば幼馴染みの関係。あまりに仲のよい二人だったため、恋人同士になることにはなんの不思議もなかった。
「まぁ、いつも一緒の仲良しさんだったから、いつかはつきあったりもするんだろうとは思ったけどさ。」
「優人くんからバレンタインデーに告白があるとは、幼馴染みのさっちゃんも思わなかったよねぇ?」
「あのときはちょっとびっくりしちゃったよぉ…。やっぱり、バレンタインって言ったら女の子から告白だもん。でもね、私も『今日は告白するんだ』って思ってて、ゆーくんもそう思ってたんだなって考えると、私たちってやっぱり気が合うんだなぁって。」
 バレンタインデーに告白したのは綾川優人(あやかわ ゆうと)、佐知子が「ゆーくん」と呼ぶその男の子だったのだ。
 ゆーくんもちょっと変わったぼけぼけな男の子だが、さっちゃんも同士である。意中の男の子が告白してきたら、バレンタインデーだろうとうれしいものだろうが…。ここまでぽわーんと幸せになれる女の子は多くあるまい。そもそも、バレンタインデーにおっきなチョコレートケーキとともに告白する男の子を好きになる女の子は、そんなにいるものだろうか。
 ひたすら幸せそうにケーキを切り分ける佐知子と、羨んでいるとも呆れているともつかぬ二人の友人の笑顔が、穏やかな昼下がりを描いている。

「それで、ゆーくんとはうまくいってるの? 二人を見ていると、一年前から何も変わっていないような気がするんだけど。」
 チョコレートケーキをおいしそうに頬張りながら、ケーキのお礼にとでも言わんばかりのご挨拶をする瑞葉。
「そうそう。ま、二人の場合、つきあう以前から行くとこまで行ってたって感じもあるか。」
 新たなチョコレートケーキを自らの取り皿に引き寄せながら、ありきたりの結論を持ち出してごちそうさまする理奈。
 なんだかんだ言っていた二人だが、結局、熱心にケーキを食べている。ケーキに幸せをもらいながらお説教めいたことを言っているようでは、この二人の春はまだまだ先のことに違いない。
 そんな二人の笑顔を観てうれしそうな佐知子の答えは、やはり、うれしそうで幸せそうだった。
「うん、うまくいってるよ。毎日とっても幸せだもん。」
「そっかぁ。でもあれだよね、そうなるといろいろ想像しちゃうよね。」
「いろいろって?」
「優人くんってやっぱり女の子っぽいからさぁ、佐知子とキスしているところを考えたりすると、なんかこう、あってはならない雰囲気が…。」
「瑞葉、百合小説読みすぎ。」
「ぇーっ、だってぇ、女の子同士って憧れるよぉー。」
 さっきまでせっせと動かしていたフォークをおいて目を輝かせる瑞葉、何も言うことなしとせっせと食べる理奈、それって何とぽかーんとする佐知子。
「…キス? したことないよ。」
 にこにことケーキを口に運ぶ佐知子、輝かせた目線を変える瑞葉、佐知子に変わってぽかーんとする理奈。
「高校二年生の男女が一年間つきあって…以下省略っ。」
「なるほど、女の子同士説もそんなにはずしてはいないか…。」
 こうして、穏やかだった昼下がりは突如、さっちゃんのための「彼女」のあり方講座に変わるのだった。講師はもちろん、男女含めて恋人いない歴の長そうな瑞葉である。
「だいたい佐知子はお姉さんなんだから、もっと…」


 一方そのころ話題のゆーくんは、バレンタインデーだからとチョコレート配り。今年はトリュフ。
「さんきゅ。って、おまえ、彼女いるのにいいのか?」
「大丈夫だよ。さっちゃんも『いいよ』って言ってたから。」
「そういう問題か? と言うかだな、おまえら、男がチョコレートを配るところにまず疑問を持てよ。」
 的を射たコメントをありがとう。
 告白をした去年もこんな状況だったのだ、優人にしてみれば当然の行為なのかも知れない。そして周りもすっかり当然のこととして受け止めそうになるが、よくよく考えてみれば異様な光景である。
 しかしよくよく考えることなど全く似合わぬ笑顔は、さらりと答えた。
「さっちゃんは喜んでもらってくれたよ?」
「彼女からプレゼントをもらって喜ばないヤツはいないだろうけどさ…。」
 実は羨ましいけれども、露骨には言えない。男友達である優人からのチョコレートも少しだけうれしい。色づくことのないバレンタインデーが、昼時の食堂にはあった。
 そんな四人でも、四人もいればまともな意見が出てくるのは先の通りだ。
「優人は男で『彼氏』だろ。」
 どうやらここの様子も、教室のチョコレートケーキ付近と似たり寄ったりである。であるからして結局、話の展開も似たり寄ったり。
「彼女からプレゼントをもらって喜ぶ彼女、いいなぁ…。」
「イヤ、だから、優人は彼氏。」
 少しおかしな妄想が入るのも。
 チョコレートのお礼か、はたまたやっかみか。お決まりのご挨拶があるのも。
 もらったばかりの包みを開けて、男の子向けにとちょっとだけ大きく作ってあるトリュフをとっても大きな口に放り込む。
「んで、その彼氏もやっぱり男の子で、河原を抱いたりするんだ?」




 バレンタインデー翌日の土曜日、よく晴れていた。差し込む夕日は並んで歩く佐知子の、春めいた明るい洋服をオレンジ色に染めている。
「このお洋服、似合うといいな。」
 一周年記念のデートはお買い物。普段は佐知子一人で買いに行くことの多い洋服を、優人とともに買いに行った。
「絶対似合うよ。試着したときも凄く似合ってたもん。」
 優人の答えはいつも通りだったが、やっぱり、そして今日だからこそ、佐知子はとてもうれしくなってしまう。しかし、彼女にはちょっとした不満もある。その言葉に嘘はないとわかっていたし、優人がいつも佐知子の服装をよく見てくれていることは知っていた。それでいてどうしても、不満なこと。
「あのさ、今の私と、制服姿の私、どっちが好き?」
 ぴょんっと半歩前に出て顔をのぞき込み問う佐知子に、優人は照れもせず答えた。
「どっちも好き。」
「ぅー、またぁ。たまにはどっちが好き、って言ってよぉ。」
 制服を纏えば落ち着いたお姉さんになる彼女だが、衣服の好みは少女趣味で、私服姿は少し幼い。彼女自身その差には気づいているが故、優人もどちらかの方が好きだろうと思っている。しかし、優人はどちらだと言ってくれない。一度だって「似合わない」とか「こっちの方がいい」とか言ってくれたことはない。似合わないと言われるのはさすがにショックだろうが…。

 一周年記念だからと、今日の服装は初デートのときと同じもの。会ってすぐ、そのことに気づいてくれた。今日だけではなく、意識していつかと同じ服を着れば必ず気づいてくれて、新しい服を着ればいつも褒めてくれる。
 優人が佐知子の服装に興味がないと言うことは全くない、だからこそ「どっちも好き」というのがきっと本心からなのだろうと彼女もわかってはいる。しかしそんなうれしい返答も、洋服選びであれこれ悩む身にはちょっと気にくわないのである。優人のためのお洋服。好き嫌いはハッキリと言って、もっと優人の好きな私にして欲しい。ずっとそう、思っていた。
 今日は記念日、とっても大切な日。着ているお洋服だってとっても大切なんだから、ハッキリ言わせちゃうもん。何でも似合うと言われてしまうとやっぱりうれしくて、その場ではいつも思っていることが飛んでいってしまう佐知子だが、今日は堅く意を決した。
「言ってくれないと、ゆーくんのこと嫌いになっちゃうからねっ。」
「ぇー、そんなのひどいよぉ。」
「ダぁメ。ほら、どっちが好き? ホントに嫌いになっちゃうぞぉ?」
 普段は「嫌い」なんて口にもしないさっちゃんが、こんなことを言うなんて。優人は冗談だとわかりながらも、佐知子にとってとても重大なことなんだと気づく。今までもいい加減に答えていたわけじゃないけれど、どちらかを選んで欲しいものだとは気づかなかった。
 彼とて好みはあるのだが、佐知子が何を着ても、好みを超えて可愛いのは事実だった。どんな姿のさっちゃんでも、見てしまったらそれが好みになってしまう、それほどまでに可愛いから。でも、今は僕の好みを聞かれているんだ、素直に好みを答えればいいんだよね。佐知子の望むこととあらば、優人の心も決まった。
「んぅー、そこまで言うなら…。今の服のさっちゃんが…、いいかな。」
 頬を赤らめながら答える優人。他人が聞いていて恥ずかしい科白をあっさり言ってのろける、もとい、あっさりと言ってのける彼が、少し居心地悪そうにしている。
「ねぇねぇ、どうしてこっち方がいいのぉ?」
 ちょっと意地悪しちゃったけど、思いもよらぬ望んだ答えを得た佐知子は大はしゃぎ。後ろから小さく抱きついて、さらなる問いを優人に投げる。どちらでもよかったけど、どちらかと言ってくれることが佐知子にとっては大切だった。ゆーくんの一番好きな私でありたい。恋する乙女の想いは、純粋なものであった。
「…可愛い、から。」
 視線をそらした先に、消え入りそうな声で答える優人。
「そっか。ありがと。私も好きなんだ、可愛いの。」
 いたずらっぽい響きはなく、佐知子は静かに答える。そして二人はまた、手を取って歩き出した。
 夕日はすでに暮れたが、その頬は赤く染まっていた。


 モノトーンでまとめられた静かな部屋。さもありなんと優人が溶け込むこの部屋は、河原家の一人娘、佐知子の部屋だ。明るく可愛い衣服を纏う、女の子らしい女の子の部屋とは思えない、静寂を湛えた空間。
「はぁい、紅茶持ってきたよ。ゆーくん、ミルクでよかったよね?」
 とたとたと階段を上がり、ちょっとお姫様っぽいお洋服の佐知子は現れた。部屋と佐知子、別々に観ると不釣り合いなようだが、一緒になってみると案外お似合いなのである。
 しかし今日は少々浮いている感が否めない。何かがいつもと違い、歯車がちょっとずれている感じがする。そうか。優人は気づくと、素直に口にした。
「うん、ありがと。さっちゃん、着替えた方が落ち着くんじゃない?」
 佐知子も優人同様、料理を含め家事全般は得意だ。そんな彼女にとってお茶を運ぶくらいどうってことはない。ところが今日はなんだか不慣れな感じがする。さっきキッチンで用意をしていたときもそうだった。なんでだろうと優人は不思議に思っていたが、その答えはすぐに出た。
 帰ってきて、着替えていないから。フリルやリボンが多用されたその洋服は、お茶を入れるだけにしろやりづらそうである。いつもなら洗い晒しの普段着に着替えるのに、今日はどうしたんだろう。優人がまた不思議に思うと、答えは聞こえた。
「うん、でもいいんだ。だって、せっかくゆーくんが『可愛い』って言ってくれたんだもんっ。」
 そう言いながら凄くうれしそうに紅茶を入れるさっちゃんを観て、少しだけ、後ろめたくなった。今まで、こんなにうれしそうだったこと、あったかな。今までずっと「似合ってるよ」って言うたびに、さっちゃんのことを傷つけていたのかな。すべてを言わなくとも想いは通じる。佐知子との関係を意識せずともそう覚えていた優人だが、そうではなかったも知れないと気づき、とにかく伝えようと声に出した。
「僕、普段着のさっちゃんも好きだよ。」
 謝るに謝れずという風な優人を見て、佐知子はすぐに感づく。やっぱり、二人は通じ合っているから。でも少しだけ、すれ違うこともあるから、佐知子はその想いを言い伝える。
「ありがと。でも、そんなつもりで言ったんじゃないから、ね。私はゆーくんの言葉、いつだって信じてるし、いつだってうれしいよ。ゆーくんが嘘つくなんてあり得ないもん。だから『可愛い』って言ってもらったお洋服、着ていたいなって。」
 言い終えると、改めてにこっと笑う佐知子。気持ちをともに、笑顔を取り戻す優人。普通の男の子なら照れてしまう場面を、その前に、普通の女の子が言うには恥ずかしすぎる科白をさらりと過ごしてしまう。

 二人の空気はまるで、目の前のミルクティーのよう。紅茶にすうっと溶け込むミルクとお砂糖。人と人、男の子と女の子。いつかまでは別のものであったけれども、今は一つ。
「ほら、あたたかいうちにどうぞ。」
「いただきまぁす。」
 甘く柔らかな味は、二人の恋の味。…甘く?
「さっちゃん、お砂糖、入れるようになったの?」
 一緒にたくさんの砂糖を入れていた佐知子に気づき、何の気なしに聞いてみる。二人とも甘いものが大好きだったが、佐知子は「紅茶は甘くない方がおいしいよ」と言って砂糖を入れない。
「ううん、今日は特別。だってゆーくん、甘いの好きでしょ?」
「好きだけど、それ、さっちゃんの紅茶だよ?」
「ぇ、ぁ、うん、そうだね。あはは、間違えちゃった。」
 なぁんだと優人は納得している。特別って言ったのに、気づかないなんて。そんな素直さがゆーくんらしいなと、ぺろっと舌を出して、佐知子はいたずらっぽい笑みに隠し味を秘めた。


「ねぇねぇ、ゆーくん、目ぇ閉じてっ。」
「うん。じゃぁ、閉じるね。」
 二人の間では自然なタイミングで、佐知子が言い放ち、優人が答えた。
 突然こんなことを言われれば、大抵「どうして?」ぐらいは返しそうなものだ。しかしそこはこの二人、このゆーくんである。素直に目を閉じられる。優人はティーカップを置き、言われるがままに目を閉じた。
「これから『いいよ』って言うまで、目を開けちゃダメだよっ。」
 独特の弾みを持った佐知子の声は、客観的に評価して何かを企んでいる声。何を気にするでもない優人には、どのように聞こえているのだろう。
「うん、わかった。」
 しばらくの間、音のしない空間が広がった。確かにさっちゃんはそこにいて、じっとしているのではなく何かをしているようだったが、明確な音が立つわけでもなくよくわからない。
 それでも優人は何も気にならないようで、色めくことなくいつも通りでいる。おそらく、佐知子も笑顔で淡々と何かをしている。お互いのことを信頼しているとか、そんなのとは全然別に、この二人はやはりどこかおかしい。普通だったら気になるぐらいはありそうなものだが、少なくとも優人は本当に何も気にならないのだろう、いつもの優しい表情のまま目を閉じて、ただそこにいる。

「ゆーくん、まだ目を開けちゃダメだよっ。これからちょっとくすぐったいかも知れないけど、少し我慢しててね。」
「はーい。」
 どうと言うこともない返事をする優人に、佐知子はふっと近づいた。目の前に佐知子がいる気配に気づいているものの、何をしているのかはわからない。いったい何をしているのだろうとやっと思ったそのときだ。
 覚えのある感覚。優人自身が毎日行っている動作にそっくりの感覚だ。
「な、何やってるの…?」
 こんな妙な状況に陥っても、優人は佐知子とのささやかな約束を守っている。しかし、己が感覚の伝える状況に疑問を覚えずにはいられない。
「秘密だよぉ。もう少しだけ待ってねー。」
 佐知子は妙に楽しそうに答えた。この感覚、ベルトをはずしたんだよね…? 服を脱がされているとしか思えないんだけど…。

 そんなことはしたいとすら思ったことのない優人も、心のどこかでは期待していたのかも知れない。いつかはさっちゃんとキスをして、いつかはさっちゃんと…。優人だって健全な男の子だから興味がないわけではない、知らないわけでもなかった。ただ、それが佐知子とは結びついていなかっただけ。今になって考えれば、結びつかなかったことがおかしかったのかも知れない。恋人としてつきあっている以上、そういうこともあるよね。うんうんと、一生懸命うなずく優人。
 その鼓動は早まり、少しだけ冷静さを失っていた。しかし彼は気づいてしまったのだ。
 それって、僕がやるんじゃないの? 女の子がやること?
 バレンタインデーに告白した男の子の考えとは到底思えないが、ゆーくんにも「これは男の子である僕のすべきこと」があるらしい。その点について如何様にすべきか、優人は無理にでも集中して考えようとした。
「ひゃんっ。」
 が、間抜けな声を出すに終わった。そしてついに、頭の中は真っ白。
 こんな声を出す子が男の子だなんて、やっぱりゆーくんは普通じゃありません。そもそも、あれこれ考えるべきことはその先の行為についてであって、どちらが脱がすかだけに集中していたことにも普通じゃない感はあったが。

 服の下の素肌に触れる、ちょっと冷たくて、ほんのりあたたかな感覚。佐知子が優人の肌に触れている。お腹に触れたその手は側面を通り、背中へと回される。と不意に、胸に柔らかなものが押しつけられる。左首筋には小さな吐息がかかった。優人と大差のない身長の佐知子なので、当然抱きつくような格好になるのだ。
 もはや何も考えられない状態の優人を感じ取ったのか、佐知子はいたずらっぽく耳元に囁く。
「へへぇ、ゆーくん可ぁ愛いっ。ぁ、まだダメだからね。何やってるかも秘密ぅ。でも、さすがに何も言わないでお洋服を脱がすのは無理だから、ねぇねぇ、ばんざーいして。」
 やっぱりそうなんだ。今の優人にはそう考えることすらできずに、囁きに誘われるかの如く腕を上げる。まるで魔法にかかったお人形、魔法少女さっちゃんの言うがままである。
「ぁ、そっかぁ、カッターシャツはばんざーいじゃ脱ぎづらいよね。ぇっと、後ろに手を回して…。」
 言うがままどころか、佐知子のなすがままに身体を動かされる始末。ついにただのお人形状態だ。つい先ほど抱いた、男の子のあり方論はその火をすでに消されている。
 そして、手早くそつなくことを済ませた佐知子が声をかけようとするそのときまで、彼の意識も消し去られてしまっていた。


 優人が再び意識を取り戻したときには、佐知子はどうも背後にいるらしかった。あたたかく柔らかいものが背中にあたっている。きっと佐知子の胸だろう。そこから伸びた腕は、両肩を包んでいる。肩を抱かれている状態なのだろうか。佐知子が身につけていた洋服の、すべすべした肌触りが心地よい。いくら意識が戻ったとは言え、今の彼には、得られる感覚を素直に感じることしかできなかった。
「はい、じゃぁ、目を開けてみよっか。」
 いつもより控えめ、でも楽しそうな佐知子の声には、未だ魔法がかかっている。右耳元で聞こえた声に優人は従い、視覚を取り戻す。同時に抱かれている感覚から解放される。
「……。」
 おかしいよ。さっちゃんが離れたのに、なんかすべすべとしたものが身体に…。えっと、僕、服脱がされたのに何か着てるよ…。ぇ、あ、どうして…?
 自らのおかれた状況が今ひとつ理解できぬ優人は、目をまん丸くし、何も言えず、眼前に現れた佐知子を見つめる。
「……。」
 無言の訴えに、にこっと満面の笑みを返す佐知子。
 未だ混乱状態の優人。

 優人が感じているほどの時間がたたぬうちに、楽しげな、聞き慣れた声が届いた。
「やだぁ、ゆーくん可愛すぎだよぉ。私より似合っちゃうなんてずるいよぉ。」
 満足そうにうなずき、笑う佐知子は続けて状況を説明する。
「あのね、今ゆーくんが着ているのは女の子の下着なんだよ。ブラとキャミソール。ちょっと下を見てみると、胸に見慣れないふくらみがあるでしょ? ゆーくんもこれで立派な女の子だねっ。」
 だんだん思考能力の回復してきた優人だったが、目線を下げて再び意識が遠のきそうになる。さっちゃんの言う通り、胸が出てる…。薄いピンク色の光沢を持った生地の下に、ふくらみがあることを直視して、女の子になってしまったことに慌てる。
「ぼ、僕、本当に女の子になっちゃったの…?」
 慌てた、か細いゆーくんの声を聴いて、佐知子はころころと笑った。優人は文字通りに、女の子になってしまったと慌てているらしい。まさかこんなにびっくりしようとは、仕掛けた佐知子も予想だにしなかった。…多少は驚いてくれなくっちゃと思ってはいたが。
「違うよぉ、ただ単に、女の子の下着を着ているだけ。ブラは胸がなくても、ふくらみぐらいは作れるから、ね。」
 優しくなだめるように佐知子は言うが、そもそも「ただ単に」ですまされる内容でもあるまい。しかし女の子になってしまったのだと半ば思い込んでいた頭脳にはそれなりの薬になったようで、優人は落ち着きを取り戻しつつある。
「なぁんだ…。びっくりしたよぅ。目を開けたら、こ、こんなだったから…。」
 なで下ろした胸を、ちょんちょんとつついてみる。中身はない、ましてや自分の身体とは言え、女の子の一部をさわるのは少々ためらわれるようだ。本当に中身がなくて、いつもの自分の身体なのかを確かめたいが、どうしたものか…。そんな彼を観て、佐知子はまた楽しげに一言。
「そのさわり方、なんかやぁらしいよ。私はそんなのやだな。」
「ぇ、だ、だって、これはさっちゃんのじゃないし、で、でも、僕のでもないし…。」
 あらら、優人くんはまた混乱してしまいました。相変わらず満面に笑みを浮かべる佐知子だが、この状況に満足しているわけではないらしい。仕方ないなぁと言わんばかりに優人のそばまで来ると、プスッと。
「ほらね? 中身は空っぽ。今私が触れているのはゆーくんの胸だよ。」
 白く細い指が、優人の左胸に触れた。と思ったら、ふっと胸はくぼみ、指先が優人自身の胸にあたった。それを見て彼もようやく正気に戻り、事態が飲み込めたようだ。
「ぁ…。」
 なんだそんなことかという安堵が、優人の胸に訪れた。試しに自らの指で右胸をつぶしてみればなんてことはない、自分の胸に触れることができる。
「ね? ゆーくんは慌てんぼさんなんだから。ほら、手を貸して。本物だとこうなるんだよ。」
 左胸にあった指は右胸の手をさらい、もう一つの左胸へと誘った。
「さ、さっちゃん、ぁ、ああ、あのっ。」
 自然に手を動かされて気づくのは遅れたが、優人の右手は今、佐知子の胸に触れようとしている。重ねられた佐知子の手のせいだとしても、そんなことはできない。重なる手を振り払おうとする優人。しかし望みは叶わず、ぴたっと佐知子の両手に捕まってしまったまま。

 反射的におそるおそる佐知子の顔を見上げた優人は、そこに輝く瞳を見ることになる。
「ゆーくぅん、今、エッチなこと考えたでしょぉ? ひどいんだぁ、ゆーくん。ゆーくんだけはそーゆーことしないと思ってたのにぃ。」
 瞳も、声も、佐知子がおもしろがって言っていることを明白に示していたが、我を忘れた優人にわかりっこない。
「ご、ごめんっ。でも、違うから、ね、さっちゃん。違うんだよぉ。」
 ついに涙が浮かび始めた優人の目を見て、さすがにやりすぎたと思ったのか、佐知子は早くも、またなだめるように言い出した。
「うん、わかってるよ。ごめんね、ゆーくんがあまりにも可愛かったからいじめちゃった。てへっ。」
 どうしたって優しく、あたたかな笑顔とともに、その言葉は優人を落ち着かせた。そして、優人はゆっくりと視線を合わせ直し、言葉を綴りだした。
「ごめんね、さっちゃん。僕、少しだけ、そ、その…、いけないこと、考えた…。」
 優しい笑顔のまま佐知子は受け取る。
「言わなくてもいいのに。少しくらい考えるのは、仕方ないよ。」
「ありがとう…。」
 穏やかな空間に包まれ、優人もすっかり落ち着いたようだった。背徳の想いはかすかに残ったが、それはこれからの行いで償おう。佐知子に言わせても大したことではなかったが、彼は誓った。もう、さっちゃんをがっかりさせたりしない、と。
 一方の佐知子は、優しい笑顔に、未だきらきらと輝く瞳を持っていた。その目にはまるで、優人の心が見えるかのようだった。
「でも…、エッチなことを考えたお仕置きは必要、だよね?」
 にこにこと楽しげに言い放つ佐知子、しかし神妙な面持ちで答える優人。
「ぅ、うん…。僕が悪いんだもんね…。」


「やだよぉっ、こんなの絶対にやだっ。」
「だってゆーくん、もう下着まで着ちゃったんだよぉ? 今更手遅れだと思うけどなぁ。」
「そ、そんなことないって、これ以上は絶対いやだよぅ。」
「だーめっ、お仕置きだもんねっ。」
「さっちゃんの意地悪ぅーっ。」
 意識がある故に、苦しいものである。エッチなことを考えた代償は小さくなく、彼の身体に覆い被さった。文字通りに。

 深紅のタータンチェックが可愛いビスチェドレスとショートケープ。ドレスのスカート部にはパニエが入り、膝までプリンセスラインを描く。ビスチェ部とケープの間、そしてケープから伸びる袖には真っ白なブラウスが見える。当然、ブラウスの衿には大きくて赤い、リボンが結ばれた。少女趣味の佐知子が選んだお洋服だけあり、思いっきりロリータである。
 すっかりお洋服を着せられた優人は、まるで女の子。お姫様。本人もそのことに気づいたようで、鏡を前にひどい落ち込みようである。バレンタインデーに告白した男の子の気持ちとは、とても難しいものなのだ。
「ほら、すっごく可愛いよっ。今日のお洋服はね、ゆーくんのために選んだんだから。」
 佐知子の試着していた洋服がまさか自分の着るものになろうとは、優人だって思いもしなかった…。あのときの「似合うよ」という言葉、まさか自分に向けられようとは…。
「ぅー。うれしくないよぉ、そんなのぉ。」
 泣きそうな顔がまた可愛い。佐知子もそう思っているのだろう、にやけた顔がまたにやける。佐知子はうれしそうに、そして大変満足そうに優人の肩を抱いた。鏡には可愛い姉妹が映っている。
「一生の記念になるんだから、ねっ、笑って。もうすぐ着たくても着られなくなっちゃうんだから。」
 またにこっと笑う姉。身長差のあまりない二人だが、実は少しだけ、優人の方が小さい。それはまだ第二次性徴の発現を迎えていないためなのか、男性の骨格を有してもいなかった。故に、自分のサイズに合わせた服は、優人が着られるとわかっていたのだろう。しかし二人の年齢を考えれば、来年は着られなくなっている可能性が高い。一生に一度、最後のチャンスだった。
「記念でも何でも、こんなの着たくないよぉ。」
 すっかりしおれてしまった深紅の花、来年は咲くこともできないのに。優人にしてみればそれが本来であり、一生の記念なんかよりそんな当たり前が欲しくて仕方ないのだが。佐知子は相変わらず頬を紅潮させている。
「ゆーくん、そんなこと言って本当は気に入ってるんじゃないの? ゆーくんのお胸、ドキドキが早いみたいだよ?」
 彼女の声は引き続き、いたずらっぽかった。
「そ、そうかなぁ…。」
 弱腰ながら反論する最中も、トクントクントクン…。確かに、心なしか早い鼓動が優人にも感じ取れた。自分ではしゅんとしていたつもりが、実はうれしくて喜んでいたのだろうか。でも確かに、伝わる鼓動は早い。改めて観た鏡には、可愛い姉妹が映っている。恥ずかしいともうれしいともつかない、微妙な感情に染まっている気がする。
 僕は、この格好が気に入っているのだろうか。あってはならないと思っていた現実に、どうしたらいいのかわからなくなる。混乱して、なおさら鼓動が早くなっている気がする。さっちゃんの言う通りなのかな…。

「なぁんてねっ。早い鼓動は、私の…だよ。」
「ぇっ。」
 佐知子の言葉に、優人は素直に驚き、伝わる鼓動を重ねて感じる。
「ぁ、本当だ…。さっちゃんの胸の音、聞こえる…。」
 気づいたとき、それは突然に訪れていた。そうではない。突然に戻ってきた、穏やかな時の流れ。甘くあたたかな、静寂を湛えた空間。
「一生の記念だもん。今度は私が、目をつぶるから。」

 甘い香りが、流れ込んだ。

あとがきに続く。