金はそれなりにある。時間もそこそこにはある。けれど、やることはない。彼が退屈しのぎに手を出した援助交際。今や特別なものでもなく、現地での調達も容易、ネットのいわゆる出会い系で釣り上げることも容易だ。
釣り上げているのか、釣り上げられているのか。そこは何とも言えないところだが。
「普通にデートしてくれる人募集。来週の日曜、よければメールください。」
見慣れた出会い系の掲示板で、ふと目にとまった書き込み。
金はそれなりにある。時間もそこそこにはある。けれど、やることはない。退屈しのぎの援助交際もいい加減飽きた。御年二十七歳。山崎慎太郎は久々の餌に食らいついた。釣り上げられるのが俺でも構わない、楽しければ。そう思ってのことだった。
なんだかんだ言っても男はセックスが目的で、女は金が目的。需給バランスが保たれているからこそ、その類はうまく回っている。よほど頭のおかしいヤツでもない限り、わずか数行の誘いの文字列と、あからさまな捨てアドにそれ以上のことは期待しないだろう。
故に、セックスの匂いも金の匂いもしなかった書き込みに、慎太郎は手を出した。
「さてと、吉と出るか、凶と出るか。最悪殺されることでもなければいいさ。」
動機に不似合いな、晴れ渡った空に呟いた。彼は今、待ち合わせ場所に来ている。
「駅前の喫茶店に、十二時ちょうど。店の前に着いたらメールをください。」
相手の指定通り、「店の前に着きました」とメールを送る。
返信を待ちながら、慎太郎は次の手を考えていた。この暇な日曜日を、どうやってつぶそうかということだ。暇つぶしのためにここに来たわけだが、実は暇つぶしが要されるかも知れないことを彼は知っていたから。
この手の待ち合わせはそんなに信頼できるものじゃない。ときには行ってみたら誰もいないということもある。今回は変わり種の誘いだったので、特に疑っていたわけでもないが、信じていたわけでもない。だから自然と、相手がいなかったらということを前提に彼の思考は進んでいた。
しかし、程なくして返信が来た。
「意外だな。」
落ち着いた風に呟きながらも、にわかに心躍らせ、携帯を開いた。これは案外、いや、期待通りにいい暇つぶしになるかも知れない。
「お店の一番奥の席に座っています。黒い洋服が私です。」
宝探しの最終局面を迎えた彼は、メールに従い、喫茶店の中へと入った。
「いらっしゃいませ。」
「待ち合わせなんで、いいですか?」
「はい、どうぞ。」
店員と挨拶をしながら店内を見渡すも、L字型に曲がったフロアで入り口からは奥まで視認できない。大して広くもない店内だが、慎太郎は少しばかり早足で進んだ。
果たして指定の席に、黒服の少女は座っていた。
あどけない顔の少女、年齢は推して知るべし。テーブルに隠れて上半身しか見えないが、黒い服はいわゆるロリータファッション。高めの衿とパフスリーブが、ドレスっぽい服なんだろうなと連想させる。
「初めまして。メールした慎太郎です。」
慎太郎はこの手の行動の際にも、下の名前だけではあるが本名を使っていた。同じ名前の人間などごまんといるし、仮名を使ったところで事件になれば警察にはバレる。そう考えていたからだ。
しかし概ねの人間は、本名を使わない。必要もないし、やはり、素性がわかってしまう可能性というのは避けたがる。ぺこりと頭を下げた黒服の少女も、源氏名らしい名前を口にするのだろう。
ここまでは、慎太郎にとっては特に珍しいことでもなかったはずだが。
〈初めまして、美咲です。〉
意外な展開となった。極めて意外な、予想外の展開である。
黒服の前に真っ白なスケッチブックが現れ、そこにはこう書かれている。
〈初めまして、美咲です。私、しゃべれないので、筆談でもいいですか?〉
テーブルの前で立ちつくし、ぽかんと間抜けな表情の慎太郎。やっぱりと言わんばかりに柔和な表情の黒服少女。
次の瞬間を作ったのは美咲で、にこっと笑いながらスケッチブックのページをめくった。
〈しゃべれないけど聞こえますから、答えは声でOKです。〉
「おーけー。別に構わないよ、筆談でも何でも。ははっ。」
乾いた笑いとともにやっとこさ反応を返した慎太郎だが、さすがに驚きは隠せず、どうしたものかと戸惑っていた。
予想外どころではなく、想像の範疇をも超えた展開じゃないか。しゃべれない子とセックス、それなんてエロゲだよ。
あえて無言の悪態を吐くと、多少は心が落ち着いてきた。そして案外これは楽しいことになるんじゃないかと、慎太郎には思えてきた。この店内に踏み入れたときの妙味を取り戻し、会話の口火を切った。
〈遊園地とか? お買い物とか? 映画とか?〉
いつもと違う何か期待していたとは言え、慎太郎にとっては再び番狂わせもいいところだった。「デートがしたい」という希望に添ってどこに行こうかと彼が告げると、彼女が書いた答えは。
そして本当に普通のデートをさせられるとは。呆れるあまり、彼の顔には笑みすらこぼれている。
一方、美咲は楽しそうにはしゃいでいる。どこまでが計算で、どこまでが本気なのか。慎太郎には全く計りかねる。彼女は書かないとどうしても伝わらないこと以外、言葉にしない。だからずっと、笑顔だけ。慎太郎の経験からは本当の笑顔にしか見えないその笑顔が、美咲からの主なコミュニケーション手段なのだ。
結局二人は、電車に乗って数駅先にある遊園地に来ている。
仲良くアイスを食べながら歩いている様は、端から見ればカップル。当人たちにしてみれば、何なのだろう。彼は何とも言えず、彼女は何も言わず。
それでもしばらくしたら慣れた。慎太郎は当初の目的通り、いつもと違う時間が過ごせることに満足し、いっそのこと普通にデートしてやれと楽しみ始めた。そんな変化を感じ取った美咲は、スケッチブックを鞄に入れてしまい、いよいよ笑顔と手招きだけで、慎太郎の前をぴょんぴょん跳ね回っている。
ジェットコースターやらコーヒーカップやら、二人でいくつかのアトラクションを乗り終え、次はどうしようかと数歩先を歩いていた美咲が突然しゃがみ込んだ。
「おい? どうしたんだ?」
すっかり恋人気分なのか、自然と心配になったように慎太郎は声をかける。
と、彼女の目の前では小さな女の子が泣いていた。
はい。と美咲が女の子に差し出したのは、風船。
持っていた風船を飛ばしてしまった子どもに、美咲は自分の風船をプレゼントしているようだ。ありがちな話なのであっさり理解した慎太郎が、屈み込んで言葉を添える。
「代わりにお姉ちゃんの風船、あげるってさ。」
すると女の子の方を向いたまま、美咲は大きく「うんうん」と二度、頷いた。
「ありがとうございます。ほら、有美、お姉ちゃんたちにお礼を言わなくちゃダメでしょう?」
降ってきた言葉に二人は顔を上げると、視線の先に女の子の母親らしき人がいた。
「ありがとう、おねーちゃん。おじさん。」
(どういたしまして、ばいばーい。)
「ばいばい。飛ばさないように気をつけろよー。」
「うん、ばいばーい。」
美咲は笑顔と手を振って返し、慎太郎はそれを言葉にするかのように女の子に声をかけて見送った。
離れていく親子が前を向いて歩き出すと、美咲はくすくすと笑い出して鞄からスケッチブックを取り出す。
〈おじさんだってー。しんたろーさんっておいくつなんですか? ちなみに私は、17。〉
「うるせぇな。まだ二十七だっての。そりゃ、美咲ちゃんに比べればおじさんだけどさ。」
〈比べれば、じゃありませんよー。もうすぐ30じゃ立派なおじさんです。〉
「それを言うな。二十七は三十じゃねぇんだよ。」
ちょっと不機嫌そうな慎太郎に、美咲はころころと笑っていた。まるで、本当の恋人同士。でも二人はこのあと、何の因果か、普通じゃないかも知れないデートを経験することになる。
美咲が見つけた迷子の男の子を、だいぶ離れた案内所まで連れて行ってあげて。
二人の目の前で転んだ女の子が、持っていたアイスクリームを美咲の洋服にべったりと。
たまたま横を歩いていた女性が転んだらヒールが折れてしまったらしく、よければと美咲は自分のヒールと交換している。
こいつは疫病神か?
慎太郎はそうも思いながら、いい暇つぶしになりすぎだろうと苦笑した。
しゅんとした美咲は、わざわざスケッチブックを取り出しペンを走らせる。
〈ごめんなさい、私のせいで。〉
まるで自分が悪いことをしたかのように項垂れている彼女を見て、慎太郎は微笑み混じりに、改めて苦笑してしまった。
「ホントついてないヤツだな。まぁいいけど、楽しいから。」
次の瞬間、あろうことか目の前で男性がぶっ倒れた。
もちろん美咲は慌てて駆け寄り、(大丈夫ですか)と肩を叩いていた。
「全然普通のデートじゃなかったけど、美咲ちゃんはこれでよかったの?」
元々は「普通のデート」してくれる人として募集された慎太郎が問いかけると、窓越しに外を眺めていた美咲が大きく頷いた。
(うん。)
あれからも二、三のアクシデントに巻き込まれ、日も暮れてきた頃。
〈観覧車に乗りたい。〉
美咲が慎太郎に要求して、二人は観覧車に乗り込んだ。まさにデートの定番、美咲にとって普通のデートなら外せない乗り物だったのだろう。
夕日が差すゴンドラの中、大抵の女の子は可愛く見える。慎太郎にとっての美咲も例外ではなく、もちろん美咲は一目見たときから可愛い子だったが、今はもっと可愛く見えた。
無言で外を眺める美咲と、黙って美咲を見つめる慎太郎と。
この年になって初めての、と言えば聞こえはいいのだが、要は予想外のハプニングだらけのデートに当てられてしまったのだろうか。
美咲に、触れてみたい。
慎太郎はふと、強く想った。つい、口にしてしまった。
「美咲ちゃん。キスしても、いいかな?」
一方美咲は予期していたかのように、ゆっくりと窓外から視線を戻す。
ゴンドラの中、二人の視線は交わされる。
(うん。)
首を縦に振り、すっと立ち上がり。
夕日に照らされコントラストのついた洋服がふわりと広がり、美咲は腰を折って顔を近づけ。慎太郎はゆっくりと滞ることなく腕を伸ばし。
唇を重ねた。
美咲は慎太郎の胸に倒れ込み、ゴンドラがゴトリと小さく揺れる。抱き合い、夕日に照らされた二人は理想のデートシーンを描いていた。
美咲には、憧れのワンシーン。温かくて力強い腕に包まれ、少しかさついた唇に触れたとき。思い切って来て、よかった。彼女はそう思いながら、頂点を過ぎた観覧車に身を委ねた。
慎太郎には、意外な一コマ。いつもなら金を払ってセックスするだけなのに、今日は恋人紛いのことをしている。柔らかな洋服越しの彼女の身体は、年齢の割に青く、薄かった。けれども心地よい体温は、誤っていても、好きになってしまったんだと気づかせるのに十分だった。
観覧車を降りると、美咲は言った。
〈ありがとう。今日は楽しかった。〉
本来であれば、このあとが、対価を得る時間であろう。
しかし慎太郎には、そんな時間が永遠に来なければいいと思えた。
「美咲ちゃん。しゃべっても、いいんだよ?」
慎太郎の妙な言葉に、美咲はすらすらと言葉を綴る。
〈私はしゃべれないよ?〉
「うん、わかってる。しゃべったら、バレちゃうからだろ?」
(…………。)
一瞬の沈黙の後。
「ごめんなさい。いつから、気づいていたんですか。」
初めて発せられた美咲の声は、男の子の音だった。
「さっき、キスしたとき。身体に触れば、わかるよ。」
「やっぱり、そうですよね。キスはやめとけばよかったかな。」
「そうでもないと思うよ。」
くるりと背を向けた美咲に、慎太郎は歩み寄り抱き留めた。
「しんたろー、さん?」
「美咲ちゃんのこと、好きになっちゃダメかな。」
腕の中で後ろを振り向いた美咲は、また言葉を失っていた。
(ううん、そんなこと、ないです。)
「なら。俺が美咲の恋人になっても、いいかな。」
(うん。)
頭のよい形がこくりと動くと、跳ねるように腕の中を逃れて。再びスケッチブックにペンを走らせて。
〈今日から援交禁止。女の子のセフレとか、ダメですよ?〉
「おいおい、何の心配してるんだよ……。」
そうか、男同士なんだもんなぁ。
この手の出会いにおいて存在すべき唯一の目的を、慎太郎はすっかり忘れていた。